■■■ やちまうの徒然草(雑草)■■■
やちまうのタワゴトです(笑)
当然、文責はかなり放棄してます。
■ 更新: 99/01/22 (金) ■
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イヌは芸が仕込みやすくネコはそれが難しいと言われている。「犬は人につき、ネコは家につく」という言葉もある。
イヌが飼い主に従順なのは、「群」という一社会を形成する狼を起源とする(?)イヌたちにとってリーダーの命令に服従することがごく自然の成り行きであったからだと思う。飼い主は、犬にとって群のリーダーであり、絶対なのだ。単独でハンティングするネコとは植え付けられている価値観が違うのである。ネコは基本的に自分の都合の悪いことは行なわない、ある意味で「身勝手」な動物かも知れない。しかし、言い換えれば「自分の気持ちに正直な」動物であるとも言える。
人間はどうだろうか?
これは難しい。本音とタテマエ、宗教、倫理、民族性・・・etc.・・・いろいろなものが絡み合っていて、「多分こんな生き物ですよ」というおおまかな定義すら私には出来ない。
故人だが、斎藤秀雄という指揮者がいた。今や世界的名指揮者・小沢征爾氏の師匠の一人である。彼の著書に《指揮法教程》があるが、“打点”というものを重視している。
指揮棒が振り下ろされて、また跳ね上がる。その間に「打点」というものが存在するのだが、打点がハッキリしないと楽隊はテンポがつかみきれない。マーチのように出だしのテンポが決まればあとは大丈夫な曲ならば、指揮者は不要である。しかし、テンポの変化などがある場合は指揮者がいないと統一がなかなか図れない。芸術的な本質云々よりも、まず、指揮者は楽隊全員の息を合わせさせなければならないのだ。
余談だが、「指揮者」は「男性の用いる避妊具」に喩えられることがある。
「あった方が安心だが、ない方が気持ちいい」
出のタイミングが合わず、ずれてしまうとき、「タテの線が合わないな〜」と言う。何故、タテの線というのか? それはスコア譜(全楽器の楽譜の一覧)で、同時に鳴るべき音はタテにきちんと揃っているので、視覚的な意味からそう呼ぶのだろう。それに対してヨコの線は何か? そう、旋律(メロディー)である。同時に流れる旋律は1本とは限らない。クラシック音楽の世界では四声以上の別旋律が同時に進行することは珍しいことではない。そのとき、ヨコの線(旋律)がどれだけ立派に演奏されていようと、それぞれのタテの線が狂ってしまっていたら、全体のサウンドとして変なものになってしまう。
「主張と協調」・・・・・このバランスは合奏に於いて最も大事で、かつ奥が深い。これは音楽の世界だけではないはずだ。
あなたがこの乱文(笑)を読んでいる間にも時間は刻々と過ぎ去っている。後戻りは出来ないのだ。時間は現存する空間に何らかの係数が掛け合わされていくものだと私は勝手に解釈している。その係数がどんなものなのか私に知る術はないが、空間の時間による展開が無限であると私は信じたい。
空間が無限ではなく有限だと仮定したとき、我々の日々の営みは、「メビウスの輪」や「クラインの壷」もしくは「トーラスの結び目」をなぞり続けるという行為になってしまう。いくら進んでも元の場所に戻ってしまうのである。
しかし時間による空間の展開が無限なのであれば、同じところに帰ってきたとしても、それは単にその座標値が数値上、以前と同じというだけであって、そこは以前のそこではないのだ。
ギリシャ神話に「シジフォス(シーシュポス)」という人物が登場する。
彼はとても賢い人間だったが、その賢さが災いして、神々を冒涜したという罪により彼は地獄に落とされ、巨大な丸い岩を山の麓から頂上まで転がし運び上げるという罰を与えられた。彼が頂上まで苦労して運んだ巨岩は、すぐさま山の反対側の斜面へと転がり落ちてゆく。彼は下山し、再びその岩を山の頂まで運ばなければならない。そう、永遠に終わりのない罰を与えられたのだ。
これ以上の苦痛があるだろうか。終わることのない無意味で単調な労働の繰り返し・・・・・なんと残酷なのだろう。延々数時間かけて進めたロールプレイングゲームのデータをセーブする前にリセットされてしまうようなものだ。
「自分は何故、今、ここにいるのか?」
これは私が中学生の頃、真剣に考えていたことだ。今現在もその答は出ていないが、今はその答を出そうとは思わない、いや、出したくないというのが正直なところである。
もし、その答を出してしまったら、人生そのものに絶望するかもしれないからだ。私たち人間はこの世に「生」を受けた瞬間に「死」に向かって歩き続けなければならない。これは避けようのない事実である。そして今、自分がその境遇に置かれていることも・・・・・。
シジフォスは岩を運び続ける。彼は不幸な境遇なのだろうか?彼自身の存在意義は?
人は何故、生きるのか?それは「希望」が必ず彼らの中にあるからである。どんなに些細なことでも、それは希望になりうるのである。もしそれがなければ、生きることそのものが苦痛でしかないはずだ。シジフォスも一見、無意味な労働をしているように見えるかもしれないが、彼は人間の中で最も狡猾とされた人物なのだから、その労働は彼の中で無意味ではなくなっているはずだ。(歴史に名を残すとか、偉業を成し遂げるとか、そういった成功を手中におさめるだけが人生ではないはずだ!)
人は生き続ける・・・自らの終止符を迎えるまで。しかし、それは本当の終わりではなく、単なる区切りに過ぎないかもしれない。そのときが来るまで分からないのだ。
指揮者、故斎藤秀雄氏はタテの線を重視する指揮者であった。しかし晩年、急に彼はヨコの線を重視する振り方に変わったという。いったい何が彼をそうさせたのか?
人は現存するすべてのものに対して、無関係ではいられない。関わらなければならないのだ。そこには多種多様な価値観があり、それでいて社会という規則のタテの線の中で、自らの意志で自分の行動、すなわちヨコの線を主張してゆくのだ。時には犬のように従順に、時にはネコのように自由奔放に振る舞う。そこに矛盾が生ずることは避けられないが、それは人間なのだから仕方のないことだ。
自分自身の存在意義?それ以前に自分が存在してしまっているのだから・・・・。
人の存在を具現化するものに『行為』というものがある。『行為』とは「人が意識的にするふるまいで、かつ、善悪の対象となるもの」である。つまり、「おこない」と「しわざ」の総称ということができる。しかし、ここで問題提起する必要がある。それは、善悪の評価の指標をどこに置くかということだ。
何をもって「善」とし、また「悪」とするのか? 社会の持つ倫理・道徳によって善悪は概ね振り分けられるが、「郷に入っては郷にしたがう」という言葉もあるように、それぞれの社会固有のイデオロギーの相違の現実を忘れてはならない。
人はそれぞれに皆、異なった価値観を持っている。その価値観を一社会を形成するために(形成される過程に於いて)「人の道」として集合させたものが「倫理・道徳」であろう。だが、社会の多様化、国際化等に伴い、その相違に起因した争いが絶えない。社会を形成する為の概念が社会の形成を阻害している・・・何とも皮肉な話だ。
「倫理・道徳」を掲げるものの一つに「宗教」というものがある。『心の支え』的に位置づけている人もいるかもしれないが、宗教には必ず「教義」というものがあり、それは個々で異なる価値観などを出来る限りひとつの方向へ導こうという狙いがある。つまり、秩序というものを重んじるのである。
かくいう私はまったくの「無宗教」である。が、宗教そのものを否定している訳ではない。「正しい」といわれる「道標」を示してもらうことは、混沌とした世界の中にいる自身の悩みから脱出する助けになることであろう。…それも手段のひとつだ。だが私は、「自分の意志で自分でありたい」と思っている。故に私は無宗教なのだ。(これ以上私見を述べると宗教批判に傾きそうなので割愛する。)
社会というものもそれが形成されたとき、既に「倫理・道徳」を有している(「モラル」、「ルール」、「掟」、etc.)。宗教の「それ」ほど「教え」的趣向はなく、「暗黙の了解」的なものかもしれないが、人間の行動を左右する「ものの考え方」の体系として大きな存在になっていることは否めない。
個々の人格の相違があるように、社会、宗教、あるいは民族などで、それぞれ異なったイデオロギーに基づく「倫理・道徳」があることを再確認の意味で述べたが、ここで私はひとつの意見を提示しようと思う。
「倫理」「道徳」には必ず「模範」となる『理想』が存在する。この「理想」が曲者なのだ。
理想というものは「ある理念に基づいてあるべきとされる状態」ということが出来る。つまり、物事の白黒をハッキリさせようとする力が必ず働くのである。ところが、この「ある理念」というのは社会、民族、宗教、そして個人によって、場合によっては大きく異なることがある。
ある人の行為が一方で「良」とされても、他方では必ずしも「良」とはされないのだ。
理想というものは自己の内面に向けられるべきものであり、外に向けてそれを求めることは、他者の理想を脅かしかねない。つまり、ひとつの理想を掲げたとき、それは他方への暴力となり得るのである。
「理想はひとつではないし、ひとつにはなり得ない。」これが現実というものではないだろうか。
あるひとつの理想を強硬に前面に押し出したとき、結果的に「敵」「味方」という立場が生じてしまうのである。そして、「敵」「味方」という立場の違いは「勝ち」「負け」という結果を要求し、それが感情というやっかいな心の動きを伴い、その妥協点は永遠に見いだせないのだ!
どんなにクラシック音楽に疎くても、「ベートーヴェン」の名を知らない人はいないであろう。・・・そう、あの、音楽室の壁に貼ってある厳つい表情をした「あの人」である。
作曲家として、人生の一番実のあるべき時期に聴覚を失い始めてしまい、それでいながら、最終的には9つの交響曲、多数のピアノ曲、室内楽曲等、様々な名曲を世に送り出した偉大な人物だ。彼の存在は当然、後の作曲家達に多大な影響をもたらした。
ベートーヴェンの作品には2つの方向性があった。1つはドイツ音楽の流れを汲む、「構築性」に重きを置いた絶対音楽的発想(保守的)、もう一つは自由な発想による標題音楽的(革新的)なものである。彼の作品の中で比較的それが顕著に現れているものは9つの交響曲である。
交響曲という楽式は、「交響曲の父」と称されるハイドンの時代に、既に完成されている器楽楽曲の形式の一つである。それは4楽章で構成され、第1楽章はソナタ形式、第2楽章はゆっくりとしたテンポの複合3部形式、第3楽章は舞踏的な古典組曲のメヌエット、終楽章がロンド形式による比較的にテンポの速い軽やかな曲といった具合になっており、本来、「絶対音楽」なのである。絶対音楽である以上、それ自体が音楽の中で完結せねばならない。つまり、音楽以外の表象に結びついてはいけないはずなのだ。
では、ベートーヴェンの9つの交響曲の作風をざっと見渡してみよう。
※ 古典的と言っても、第1番では第1楽章の導入部が属七の和音で始まったり、第2番では第三楽章にメヌエットではなくスケルツォを採用しているなど、既に彼の独創的なスタイルを持っている。 |
第1番 | 保守的(古典的)傾向 |
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第2番 | |
第3番 | 独自路線(新たな試み) |
第4番 | 古典的傾向 |
第5番 | 形式は古典的だが、第1楽章の導入部がいきなりテーマの提示である。 |
第6番 | 革新的(表題音楽的) |
第7番 | 全楽章を通してリズムを強調(舞踏的) |
第8番 | 保守的(古典的)傾向 |
第9番 | 革新的(器楽と声楽を交響曲上で合流) |
交響曲第1番と第2番は先人にならった形式で作曲されているが(※)、交響曲第3番「英雄」では第2楽章に「葬送行進曲」を用いたり、第3楽章にスケルツォを定着させるなど、もはやそれまでの交響曲とは明らかに異なった独創的な立場をとった。
交響曲第4番で古典的な形式に戻ったかと思いきや、交響曲第5番「運命」では、曲の冒頭でいきなりテーマのモティーフを投げつけるという突飛(笑)な事をしでかし、交響曲第6番「田園」は楽章に「小川の場面」「夕立」などの副題が付されていることから表題音楽的であると言える。
交響曲第7番はやたらとリズムを強調した舞踏的なものであり、交響曲第8番で再び古典的な傾向に向かうが、交響曲第9番では、本来、器楽のジャンルであるべき「交響曲」のジャンル上で声楽を合流させるという荒技をやってのけてしまった。歌詞を持った時点で、これはもはや純粋な意味での絶対音楽ではない。
さて、ベートーヴェンの死後、しばらくして音楽界で大きな対立が起こっていた。それは表題音楽を支持する者と絶対音楽を保守していこうとする者の対立であった。この対立は、「起きた」というより「起こされた」というべきであろう。
その当時、今でいうマスコミ(ジャーナリズム)の立場にあった音楽評論家の一人、ハンスリックという人がウィーンの楽壇を牛耳っていた。彼は「伝統と格式を重んじる」タイプの人間だったのだろう。一貫して、表題音楽に傾倒する作曲家(ヴァーグナーやヴォルフ、リストなど)やその作曲家と交流のあった作曲家(ブルックナーなど)を紙面でさんざんこきおろし、ブラームスやシューマンらの絶対音楽的な立場を擁護した。
当然、この立場の相違は派閥となり、作曲家達は二分され、交流はなくなってしまった。皮肉なことに、二分された両者はともにベートーヴェンの音楽を崇拝していたのである。
古典的な形式やしきたり、伝統を守ってゆこうという態度は理解できる。しかし、表題音楽を攻撃する必要はあったのだろうか。排他的な態度をとると、そこに留まるばかりで、前進出来ないような気がするのだが・・・。
(何だか、ムチャクチャ抽象的になってきた・・・)
ちょっとこれを「詩」に置き換えて考えてみよう。
詩というものは、言葉の持つリズムを効果的に用いる。「韻をふむ」というものだ。しかし、その理論にこだわりすぎてしまったら、「韻律のみの存在する無意味で無感情な詩」になってしまわないだろうか。
詩であろうが音楽であろうが、「表現」のひとつの手段に過ぎないと思うのだが。
充分に計算され、理論で裏付けられた芸術表現は確かに素晴らしいものかもしれない。しかし、表現それ自体に根付くものは「自由」であるはずだ!
秩序にこだわりすぎて、「自由」を失うことは、「人間であることをやめること」のような気がする。
私たちは、どこから来て、どこへ行くのか・・・。何が目的で、何をする為にここにいるのか。人って何? 自分って一体・・・。
・・・・・さて、そろそろ嫌気がさしてきたかしら?(笑)
ここでもう一度、自分というものについて考えてみたい・・・・・。
貴方は、自分自身を100%理解していますか?
ちなみに私は自分のことを4分の1も理解していない。「これが自分だ!」と自信を持って言えるものは、「本当の自分全体」の4分の1以下だと思っている。
ところで、・・・「名前」って一体何なのか?そのものを説明する為のもの?いやいやそんな単純なものではないだろう。
誰でも自分の名前を呼びかけられたら、振り向くか返事をする。でも、名前はあくまでも「エイリアス」であって、自分の本質は別の所にあるはず。しかしながら、刻々と過ぎ去って行く「時間」というものに縛られたこの空間の中で、永続的に不変な状態で存在しうるものは何一つない。昨日の自分は、もはや自分の意志ではどうすることもできない他人である。
では、未来の自分は?そう、現在の自分の行為によって組み立てられてゆく。そして、そこにいる未来の自分は今現在の自分ではない。
・・・・・今ここにいる自分自身は、本当に自分なのだろうか?
「努力はいつか必ず酬われる」
この言葉はウソではないと思う。しかし、自分が生きているうちに酬われるとは限らない。それでは、努力することは無駄なのか?
私はそうは思わない。報われなくてもいいではないか!
努力は周りからの評価を得るためのものであってはならないと思う。自らが自らのためにすることこそ本当の努力ではないだろうか。自己満足?・・・それでいいのだ。すべてはそこから始まる。
「人の役に立ちたい」
「人のために働きたい」
大いに結構!でも結局のところ、それらによって得られる満足を自分の中に取り込みたいだけかも・・・。
毎日の努力を通して、得られた、もしくは得られるかもしれない満足を自分の中に取り入れ、「自分」というものがいったい何なのか、凝視してみる。・・・空しいかもしれない、死にたくなるかもしれない、・・・でも、「これが自分だ」と実感できるものを日々持ち続けてゆくことで生きてゆけるのだ。
自己嫌悪という感情はマイナスイメージにとられがちだが、私は新たな自分の発見のためには絶対に必要だと思っている。そこから脱出するためにはどうしたらよいのか、という大きな努力目標が出来るからだ。
努力の結果が報われて、望み通りになれば嬉しいことこの上ない。しかし、必ずしも望み通りにならないからこそ、人生は面白い。
現実の世界と違って、ネット上ではある意味で「本性」がさらされる。実社会で押し殺されていたものが一気に吹き出すというワケでもないのだろうが、ネットにおける「匿名性」がそれを引き出すひとつのファクターになっている。一方、これに起因する「もめ事」も、多数起こっていることも事実で、ネット上でのエチケットとして「ネチケット」というものまで提唱されている。現実社会のみならず、ネット上まで規律が設けられて行動制限・監視される日が、いつの日か、来てしまうのかもしれない。(そんなことになったら嫌だなぁ・・・匿名性がなくなったらネットはお終いだぁ)
ネットは、確かに仮想現実の世界なのかもしれない・・・物理的なデータのやりとりに過ぎないと思われがちだが、でも、そこに介在するのは人間のはず。単に機械を通しているだけで、実際に人と接しているのとそんなに変わらないのではないかと私は考えている。
本音をぶつけ合うことが出来るのは、ネットの良い面である一方、やっかいな面であることも否めない。
ネットにアクセスしている目的は人それぞれのはず。ある人は情報収集のためかもしれないし、ある人は遊びのため、また、ある人は現実逃避かもしれない。
その目的を制限する権利は誰にもないし、
ましてや強要されるのはどう考えてもおかしい。
ふと、「ハイウェイ・ヒプノシス」という言葉を思い出した・・・。それは直訳の通り、「高速道路における催眠状態」のことだ。一般道路の走行に比べて、運転作業が単純なことから起こるらしい。「高速で移動する」という、ひとつ誤れば大変危険な状況に置かれているにも関わらず、緊張の糸がフッときれる・・・そんな状態だろう。幻などを見やすい状態なのだそうだ。
(あれ?そうだっけ??・・・無学な私が、ろくに調べもせずに書いてることだから、かなりいい加減かも・・・)
この状態は、何も高速道路に限って起こることではないだろう。どんなシチュエーションでも起こりうるものだと思う。
例えば、トンネル内を走行中に幽霊を見たとか、もしくは、同じ場所で事故が多発するとか・・・、これらも「Highway-Hypnosis」の一種ではあるまいか?
これがネットアクセス時でも起こり得るのではないかと、私は勝手に推論する。
私が学生時代、「遠距離通学」なるものを(たったの2年ほどだが)していた。片道3時間かかる道のりである。都心の毎朝のラッシュはすさまじく、(トランペットの)楽器ケースはハードケースというトランク状のものでないと、楽器が壊れてしまうほどである。
満員電車というのは人にかなりのストレスを与える。私は楽器ケースを足の間に挟むようにして、出来るだけ周囲の邪魔にならないようにしているつもりだったのだが、「何だ!この野郎!こんな物を満員電車に持ち込みやがって!」という感じでケースに「蹴り」をいれられることもしばしばあった。ソフトケースだったらひとたまりもない。だが、そのような「攻撃」をする人を私は責める気にはなれなかった。皆、押しつぶされそうなほど混みあった電車に好きで乗っているはずはない。イライラして当然だ。
電車(小田急)が新宿に着き、山手線に乗り換え、池袋で西武線に乗り換える。この「池袋乗り換え」で待ちかまえているのが、幅5メートルほどの人の流れの横断である。
「JR線の池袋」から「西武線の池袋」までは地下の通路を歩くのだが、西武線からJRや地下鉄有楽町線へという乗り換えの人の流れが目前に立ちふさがり、これを「横断」しないことには西武線の池袋駅へ到達することが出来ない。
意を決して、その人の流れを割って入っていく。直角に横断するのではなく、目的の進路方向に向かって45度の角度で横断するのがコツだ。そうしないと流されてしまう。
「ふぅ・・・」人の列を横断し終わって、いつもため息をついていた当時の私。横断中に楽器ケースが人の足にあたって、「バカヤロー!」って怒鳴られたこともあった。
そんなある日、面白いことに気がついた。流れを割って横断する私の背後に10〜15人の人が、まるで金魚のフンのごとくついてきていた。目的地はきっと私と同じ、西武線の池袋駅であろう。
「よし、明日からこの手でいこう・・・」
早速、翌日からこの方法で人の流れを横断してみた。流れに割って入るのではなく、割って入ろうとしている人を即座に見つけ、その人の背後に回り込んで、後は普通に歩くだけだった。なんと楽なんだろう。今まで苦労していたものがひとつ減った。
これを「ズルい」とみるか、「賢い」とみるか・・・・・。
感情抜きに判断すれば、これは「賢い」手段ではないだろうか。通勤通学は目的ではなく、目的地に到着するための手段のひとつに過ぎない。それに労力を使うよりも、仕事(目的地での行動)に労力を使うべきだ。
先日、「白タク」なるモノに初めて乗った。ナンバーが白いタクシー・・・明らかにこれは違法行為で当局で取り締まられるものである。
酔っぱらいの私は、最終の山手線で降車駅を乗り過ごし、某駅のタクシー乗り場に並んでいた。そこに、「3000円で乗ってかないか?」という中年の男の人が現れた。そこから我が家まではどう考えても5000円以上かかるのだ。
道路運送法 第80条より |
「自家用自動車は、有償で運送の用に供してはならない。ただし、災害のため緊急を要するとき、又は公共の福祉を確保するためやむを得ない場合であつて運輸大臣の許可を受けたときは、この限りでない。・・・」 |
「君子は危うきに近寄らず」
その時の私は相当酔っていたし、そんなことはどうでもよかった。危なくてもいい。「乗ってしまえ!私は君子ではないわい!」・・・そしてその白タクに乗車した。
その白タクの「運ちゃん(運転手さんと書くべきか)」と色々と話をしているうちに、「あんたのとこ、俺の家のそばじゃないか。1杯やってかないか?」と言われ、飲みに行った。(ちなみにその時、私はかなりの泥酔モードであったにも関わらず・・・)
世間話に花が咲いた。自分が違法行為をしていること。それを悪いことだということを認識していること。さらには身の上話まで聞いてしまった。
生きていれば、色々なことがある。「良いこと」と「悪いこと」の間に自分なりの線を引くことは簡単だ。でもその線の両側に人は存在しているのだ。大抵の人は、“自分の中の許し難い「嫌」な部分”を、他人に隠して暮らしている。でも、その運ちゃんは、裏表なく、自分の両面をさらすことの出来る人だった。
世間一般の意見を通せば、彼は明らかに排除されてしまう人間だろう。でも、彼は「違法行為」をやりたくてやっているのではなく、本来の目的は別にあった。彼の目は「お金」でもなく、「肩書」でもなく、もっと遠くを見ていた。
「疲れてるとこ付き合わして悪いな。
とりあえず約束の3000円だけは払ってくれ…」
その時感じたすべてをここに言葉にすることは私にはとても出来ない。もう1度彼に会って酒を飲みながら色々と話がしたいと思っている。
この世の中、お金がないと何も出来ない。お金がまったくなかったら、生きていくことすらままならない。
「何をするにもお金々々・・・お金なんか大嫌いだぁ〜!!」と叫んでみたところで、お金と縁を切ることは不可能だ。
「人はパンのみにて生くるものにあらず」
これは『新約聖書』の中に出てくる言葉。“物欲”に走らず、“心”を大事にしなさい、という“教え”なのだろうが、喰うものがなければ餓死してしまう。しかし、今の世の中、苦しんでいる人に手を差し延べてくれることは稀有だ。自分のことは自分で何とかせねばならない。
人への無関心と無視・・・何て世知辛い世の中なんだろう・・・
(・・・こういう風に思うのは私だけだろうか?・・・)
この世の中には「人なんて信用できない。私はお金しか信じない」という「金の亡者」という方々が結構いらっしゃるようだが、お金というものは「幾らの価値がありますよ」っていう合意のもとで扱われる手形にすぎないはず。手形であるということは、人を信用しないことには何ら効力を持たないのでは?
だが、どこかで何かが狂い始めてしまっているようだ。もはや、どうすることも出来ないのだろうか?
「人の心はお金では買えない」というが、お金で人の心は変わってしまう。
・・・「お金」イコール「権力」みたいな図式も見え隠れしている。
債務者の立場というのはとてつもなく惨めなものだ。債権者は債務者に対して法的手段を講じることが出来るのだから、借りている立場の人間は「お金という足枷をつけられた奴隷」であると言える。
一刻も早く「奴隷」の身分から脱したい、少しでも裕福な生活がしたい。そう思うのはごく自然な成り行きだ。だが、人の欲には際限がない。もし、いわゆる「金持ち」になったとき、自分の心をまったく変えずにいられるかどうか・・・。
いきなり、引用で申し訳ない・・・・。でもたまには手抜きを許してくだされ・・・。
映画「生きる」より(東宝:昭和27年、監督:黒澤明) |
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主人公、「渡辺勘治」はある役所の市民課長。若くして妻を失い、息子の為に、自分のすべてを犠牲にして、息子を一人で育てあげた。そして今は、その息子夫婦と同居している。 |
(最初のナレーション) |
これは、この物語の主人公の胃袋である。 噴門部に胃ガンの兆候が見えるが 本人はまだそれを知らない。 これが、この物語の主人公である。 しかし、今この男について語るのは退屈なだけだ。 何故なら、彼は時間を潰しているだけだから・・・。 彼には生きた時間がない。 つまり、彼は生きているとは言えないからである。 だめだ・・・・。これでは話にならない。 これでは死骸も同然だ。 いや実際、この男は20年ほど前から死んでしまったのである。 その以前には少しは生きている。 少しは仕事をしようとした事もある。 しかし、今やそういう意欲や情熱は少しもない。 そんな物は役所の煩雑きわまる機構と、 それが生み出す無意味な忙しさの中で まったくすり減らしてしまったのである。 ・・・忙しい、まったく忙しい・・・。 しかしこの男は、本当は何もしていない。 この「椅子」を守ること以外のことは。 そしてこの世界では「地位」を守るためには 何もしないのが一番良いのである。 しかし、これで一体良いのか・・・。 一体これで良いのか!? この男が本気でそう考え出す為には この男の胃がもっと悪くなり、 それから、もっと無駄な時間が積み上げられる必要がある。 |
これだけだと、単なる社会の歪みを「風刺」しているだけだと思われそうだが、実は表現したいことはそれだけではないような気がする。
主人公は、自分が「ガン」であることを知る。そう、「死の宣告」である。
しかし、彼はこの「死の宣告」から「死」までの間に、「屍」同然の自分を変えて生き返ったのである。本当に「生きる」ということを、そこに見いだしたのだ。
人間はいつ死ぬか分からない。明日死ぬかもしれない。貴方がもし、死の宣告を受けたらどうしますか?・・・自分が今したいことだけをやりたいだけやって、後で後悔しないように・・・というような、「刹那主義」で生きますか?
この映画「生きる」について、「まるで、お説教だ!」という解釈をされる方もおられるが、私はそうは思わない。人間という生き物が、いかに弱いものなのか、それを弁護する立場で作られていると、私は解釈している。涙なしには見られない・・・切なさを感じずにはいられない。
主人公役の志村喬の「目の演技」はまさに鬼気迫るもので、見ていて寒気さえ覚える。だが、「彼の目」なしにこの映画は作ることは出来なかっただろう。
あらすじを、ここに書くつもりはない。(私の稚拙な文章では、とても表現できない・・・)是非、一度ご自分の目で見て頂きたい。この映画を見て、何も感じなかった人は、この世の中で自分が「生ける屍」になっているという自覚が必要かも・・・。
「引決」→責任をわが身に引き受けて自らの命を絶つこと
・・・・・・・何か事件が起こったときや、問題・トラブルが生じたときに、その責任者・担当者などが、たびたび犯してしまう過ちである。今回はいわゆる「スケープゴート」について少々・・・。
世の中ってのは、だいたいトカゲの尻尾切りで済ませようとする。悪いのは本当に「その人達だけ」なのだろうか?・・・そんなことないだろう。いろんな人がそれに何らかの形で関与しているはずなのに!
一方、「奉られるお方」という立場もある・・・それは便宜上、「長」として据えておくと都合が良い人だ。活用価値のあるうちは利用されて、いざ、問題が生じたり、その人自体の「権威」がなくなったら、「ポイ捨て」である。「これで責任の所在がハッキリした」と衆人は納得、したり顔で経緯を解説するジャーナリズム・・・黒幕は他にいるかもしれないのに。
この手のニュースを知らされた時に、その黒幕たちは「おやおや、お気の毒に」というだけで、もう既に彼らの間では、次の「企み」の申し合わせが始まっているのだ。
・・・・・黒幕って誰だ?・・・・・
それは「我々」という存在かもしれない。「わたし」と「われわれ」は似て非なるものだ。一人の中の歪みが「我々」と呼称されるトランジスタの中で増幅され、それが「事を好む」群衆を作り出す。テレビのワイドショー等はその典型である。事が起こると「裁かれる人」を世にさらし、自らの心の安息を得ようとする。人の悪夢を食うという想像上の動物「夢食う貘(バク)」でも求めてるのだろうか・・・そんな事をしたところで得られるものは新たな不安だけ・・・。
「裁かれる人」と「奉られるお方」に共通性を感じるのだが・・・。
「自分は絶対大丈夫!」なんて宣っている人ほど危ない。誰が何時、当事者になってもおかしくない・・・「明日は我が身」っていう言葉もあるでしょう?
「我々」という怪物は「私」という“ちっぽけな存在”など、
何の罪悪感もなく踏み潰してしまうのだ。
輪ゴムを張りっぱなしで長時間放置すると、張力が次第に落ち、いずれは劣化して切れる。しかし、輪ゴムは延び縮みするからこそ本来の目的を果たす。
人間の神経はこれに近いのではないだろうか。過剰なストレスが加わった状態が長く続くと精神が崩壊する。しかし、刺激やストレスが加わらないと退屈きわまりないばかりか、時には危険でもある。
長時間、刺激や情報の乏しい隔絶した環境に長く閉じこもると、情緒不安を招くそうである。南極昭和基地の越冬隊(?)の人の話だったか、何かで読んだことがある。
まず最初に訪れるのは、何とも形容しがたい焦燥感・不安感、それを過ぎると、今度は鬱状態になり、作業能率が落ちる。そして最後には、攻撃的な心理が湧き出てくるのだそうだ。その攻撃の対象は周囲の物かもしれないし、身近にいる仲間かもしれないし、自分自身かもしれない。
つまり、どちらかに偏ったままの状態が長く続くのは非常に危険なことなのだ。
私自身、この両極端の状態を日常体験している(変な奴?)ので、南極昭和基地越冬隊員(?)の話には思わず頷いてしまった。緊張が続きすぎる状態と緩和が続きすぎる状態は、同じ心理現象を引き起こすような気がする。
「最近の若者は“堪え性(忍耐力)”がない・・・」
「すぐにキレる」
これは最近よく囁かれる言葉である。何故だろう?・・・きっと何か要因はあるはずだ。無意味な考察かもしれないが、ちょっと考えてみよう。
現代は様々な事情から、核家族化が進んでいる。いや、そればかりではなく、「家族」そのものの定義すら危ういような気がしてならない。帰宅しても、家族と会話を交わす時間が「昔の家族」よりも減ってきているのではなかろうか?・・・同じ屋根の下で暮らしているというだけで、本当に家族と言えるのだろうか・・・・・。
昔の家族は良くも悪くも、お互いにいろんな意味で干渉しあっていた。(近所の人間まで干渉してきたりしていたような・・・?)今はどうだろうか・・・。これが「“堪え性(忍耐力)”がない人」を作り出している一要素ではあるまいか?昔の家族は家族同士で緊張と緩和のリズムがあったような・・・ちょっと心配になってしまう。
先日、知人(私と同業者、つまり楽隊です)宅で夜通し飲み明かし、翌日の私はスケジュール・フリーだったのでウダウダとその日の晩までそこで過ごした。(知人は弟子のレッスンが入っていたのだが・・・)そこの家は夫婦と娘2人(2歳と小学校1年生)という家族構成だ。核家族である。
知人が弟子にレッスンしている間、私はその知人の奥さんといろいろと世間話をしていた。
そこでの会話・・・
知人の奥さん: | 「今はね、何でも中途半端なんですよ。」 |
私: | 「は?」 |
知人の奥さん: | 「私はちょっと前まで、保母をやってたんですけどね」 |
私: | 「え?そうだったんですかぁ」 |
知人の奥さん: | 「最近の親って、子供に真剣にぶつからないのよね・・・叱るときは真剣に叱る、誉めるときは真剣に誉める・・・端から見ると理不尽な叱り方でも、真剣であることが一番大事だと思うんです。」 |
私: | 「今の親は過保護か放任かどっちかが多いってこと?」 |
知人の奥さん: | 「別にそう決めつける訳じゃないけどね。」 |
(・・・中略・・・) | |
私: | 「子供って面白いですね〜。さっきまで物の奪い合いしてたかと思ったら、今度は譲り合いしてる・・・物心つかないうちから人間は、他の動物とは違うんですね〜」 |
知人の奥さん: | 「ある程度の時期までは、他の動物と一緒ですよ。でもね、ある時期から自我みたいな物が芽生えてくるの」 |
私: | 「○○ちゃん(下の娘さん)ぐらいの歳からかしら?」 |
知人の奥さん: | 「そうね〜。何も分かってないようでいて、しっかり分かってたり感じてたりするのが、子供ってものよ」 |
私はちょっと安心した。今もちゃんと親らしさを追求している親がいるじゃないか、と。
そのお宅は来客も多い。私がウダウダ過ごしている間にも数回、数人の来客があった。その間、私とレッスンを終えた知人とその弟子の3人は別間で遊んでいた。そこへ下の娘さんが入ってきて私たちの様子をうかがい、大声で叫んだ。
「ねぇーーー!パパたち、サイコロとお金で何かしてるよ〜!」
やれやれ・・・子供は正直だ・・・(苦笑)
ちなみにモノホンのお金ではなく、紙幣に模した紙切れで健全に遊んでいましたので・・・
・・・念のため。
戦争、それは人殺しだ。長い歴史の中で、人類は愚かなほどそれを繰返し、後悔しているはずなのに・・・。
自らの掲げる「正義」の名の下に相手の国の主張を力ずくでねじ伏せる。そのためには手段を選ばず、ついには人類を破滅させることが簡単に出来るような「核兵器」を所有することで、それを「切り札」として他国に脅威を与え、自らの権威を保守している。
ここ数年、少年犯罪の凶悪化が各メディアによって取り沙汰されている。これに起因して、少年法の改正など、世の中で様々な動きが出てきた。しかし、所詮「臭い物には蓋」という対処にすぎないような気がする。
子供たちは人類の未来を背負っていく。いわば私たちの後継者にあたる子供たちを守っていこうとする精神に乗っ取って作られた少年法・・・これに若干の修正を加えたところで、社会自体が矛盾しまくっているのだから意味がない。
一時、少年の「バタフライナイフ」所持が世間を騒がせた。学校では所持品検査などを実施したりしたようだが、これも無意味だ。取り上げたところで、また、それに代わる物を彼らは所持するに違いない。
子供たちは親の背中を見て育つように、少年たちの社会は大人社会の矛盾をそのまま反映してしまう。大人社会の一つの大きな単位である「国」、それも世界全体に大きな影響を及ぼす大国が自らを滅亡へと導く「核兵器」を切り札にアホな駆け引きをしているのだから、子供たちに対して偉そうにお説教出来る身分ではない。自らが規範となるような「生き様」を子供たちに見せていくこと・・・それが現在、望まれるべきものではないか?・・・必死になっている大人の背中を子供たちは見過ごすはずはなかろう。
刃物で人を刺せば、相手を確実に傷つけることが出来る・・・が、同時に自分自身を破滅へと追いやってしまう・・・そんなことが分からないほど、少年たちは愚かではないはずだ。「刃物を持つな」と子供たちに言ったところで、彼らは納得しないと思う。彼らにとってみれば、「刃物」を所持することが「核兵器」同様、「切り札の一つ」なのであろうから・・・。
世の中の大人の大多数がエゴイズムに染まっている限り、社会に「愛」を見いだすことは到底出来はしない。しかし、現在の世の中、利他的に行動すれば、偽善者扱いされるか、自分自身が本当に滅ぼされてしまうか、どちらかだ。
今の大人の大多数は、自身で「悔い改める」こと、他を「許す」あるいは「認める」こと・・・そんな単純なことすら出来ないのである。恨みは恨みを呼び、彼らの中に「復讐心」を作り出す。復讐は何らかの形で果たされる。すると、相手に新たな「復讐心」が芽生える。
この無限ループから脱出する方法・・・これは至極単純なことではないか?
光ある所には必ず影あり これは自明の理なり 己が影に居るのを嘆くことなかれ 光は常に同じにあらず |
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・・・これは、私が私自身のために書いた詩である。
(これまた稚拙でお恥ずかしい限りなのだが・・・)
光を自分自身の手で得ようとするのも良し、夜明けを待つようにじっとしているのも良し。
ただ、光があることを信じて前を向いて生きていきたいものだ。
仮に光が見えないからといって、もがかないことも大切ではなかろうか。
「溺れるものはワラをもつかむ」と同じで、一生懸命に立ち向かっても、ただ空しさを手にするだけの場合もある。
今まで必死になって生きてきたのだから、ここいらでチョイと休憩しましょうよ。
自分に出来てしまった歪みや傷を恥じることはないさ・・・。
無理に前進しなくていいんだ!
前を向いていればそれでいいんだよ!
・・・自分で書いた詩を自分で解釈してみました・・・(苦笑)
「議論はいや。よく男の方は議論だけなさるのね。おもしろそうに。カラの杯でよくああ飽きもせず献酬ができると思いますわ」
これは、明治の文豪、夏目漱石「こころ」の一節。女は現実的で、男はロマンチストだとでも言うのであろうか・・・。うー、私の場合は儲かりもしない「楽隊」をやってるからロマンチストというより夢想家か・・・(笑)
「楽隊」という職業柄、いろいろ企画は出来る。イベントでも作曲でもコンサートでも・・・。でも資金繰りやスケジュールが上手くいかず、殆どボツになってしまうのだが・・・。でも、楽隊仲間と飲んでると「夢」のような実現不可能な話で盛り上がる。「一寸先は闇」のこの世の中、夢ぐらい見たって良いじゃないか!!
現代でもこの“男女の感性の差”はあるのだろうか?
楽隊の女性の方は案外“男勝り”の方が多いようで(笑)、私はあまり男女の違いを感じていない。志を同じくする仲間といったところであろうか。
もっとも、最近の世の中、男女の違いを話題に挙げるとすぐにセクハラだの何だのって過剰反応されてしまう。楽隊仲間の間ではあまりセクハラ扱いはされないのだが・・・。
映画《Always》の主人公“ピート”は恋人に「愛してる?」と訊かれても、なかなか面と向かってハッキリ「愛してるよ」と応えられなかった。彼が彼女に「愛してるよ」と言ったのは一度きり、しかし、飛行機のプロペラの音にかき消されて彼女には聞こえなかった。その直後、彼は仲間をかばって死んでしまう。その言葉は最後まで彼女に届くことはなかった。
男にしてみれば、「愛してる」と言った言わないはどうでもいいこと。でも、女性にとっては、この一言を言ってくれたという現実が大切なんでしょうね。
・・・やはり違いは無いようでいてやっぱりあるんだなぁ・・・。
私は普段の態度や受け答えで感じて欲しいと思ってしまったりしてしまう。言葉というのが“儚いもの”だと感じているので・・・・。
あ、これって男の私の勝手な感じ方か・・・
殆どの人は皆、目標・目的は異なっても日々努力・精進しながら生きている。これと正反対に過ごすと自堕落だと言われる。しかし、自堕落な生活を送っていても、その人なりのポリシーを持っていれば、それはそれで良いのではないかと私は思う。
誰も終焉の時から逃れることは出来ない・・・いずれ死んでしまうのだ。終焉の時を迎えたとき、自分で自分の人生を納得して終えられれば、それは立派な人生だったのではなかろうか。
努力・精進の酬いとして、それに伴う出世などを励みにしている人も当然いるだろう。高度経済成長期には「立身出世」がすべてであった。しかし、出口の見えない不景気に陥った今、残っているのは悩みと疑問符のみである。
考えてみれば、「資本主義経済」自体に大きな落とし穴があるような気がする。何故って?物事には終わりがあるのですよ。山を登れば降りなければならない。上り詰めるところまで行けば、後は下るしかないのだ。(その逆も言えるが)
マルチ商法やねずみ講・・・これは違法行為である。いずれ確実に破綻するのが明白だからである。しかし、ちょっと考えて欲しい。「資本主義」だって破綻するものではなかろうか。資本主義は経済が限りなく成長することを前提にしている。実質経済成長何パーセントとかよく話に出るが、複利計算だからいずれは天文学的数字になる。そんなことはあり得ないことぐらいはアホな私でも分かる。
出世にしても然り。出世街道なんて、雲にかかってる綱を上っていくようなものじゃあるまいか?綱なんて腐って切れてしまうかもしれないし、足場がないのだから力尽きて落ちてしまうかもしれない。事実、サラリーマンの究極の目標(?)である取締役にまで辿り着ける確率は(当たり前だが)極めて低い。
平凡な生活を続けていけること・・・。それはとても幸せな事なのだ。
・・・・・つづく・・・・・更新日未定(^^;